きれいごとかもだけど。
100人に1人。
この数字を見て、みなさんはなにを思い浮かべるでしょうか。
当てはまるものはけっこう多いと思いますが、
これ、「吃音」を抱えているとされる人の割合です。
けっこう身近な気がしませんか?
もしかしたら、みなさんの周りにもいらっしゃるかもしれません。
ただ、
この数字は、「言葉が伝わらないことによる『生きづらさ』」を抱えている人の割合、とも言えるかもしれません。
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こんな感じで、今までFacebookとかで吃音のことを発信していっていました。
読んでいただいた方、ありがとうございます。
正直、「これ発信してて意味あるのかな」とか、「誰かに届いてるのかな」とかってけっこう思ったりもしています。
それでもなんでやってるのかって考えると、
「吃音」っていうものを、もっと多くの人に知ってほしいから。
そして、もしあなたの大事な人が吃音を抱えて苦しんでいるなら、その助けになってほしいから。
ぼく自身、小学校3年生の時に発症して以来、改善はしているものの今もまだ付き合いつづけています。
その間、いじめられたりもしたし、からかわれたりもしたし、まともに話を聞いてもらえないこともあったし、相手の反応が常に怖かったときもあったし、いろんな悲しみや恐怖と向き合ってきました。自分で言うのもあれだけど。
でもそんなときが、こんな自分とお話してくれる人であったり、遊んでくれる人であったり、
そういう人の大切さが身に染みて分かった時期でもありました。
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「もっとちゃんと話せよ」
「何言ってるかわかんねぇ。」
「こいつまともに日本語も話せねぇのかよ。」
わかります。その気持ち。
吃音は、一見しただけではわからない障害です。
単純に「滑舌悪い人」と混同されるケースも多い。
テレビのお笑い番組で、芸人さんがひとたび噛んだりすると、即座に他の芸人がいじる。
滑舌悪いのを持ちネタにしている芸人さんも少なからずいらっしゃいます。
決してその人が悪いわけではない。
たしかに、人が噛んでしまったシーンはおもしろく映るかもしれない。
でもぼくは、そういうシーンを見るたび、おもしろさの奥に悲しさを覚えてしまうんです。
その笑いの構図を、そのまま学校に持ち込まれてしまったら。
もしその構図の中に、吃音を抱えた人が入ってしまったら。
悪気のないいじりの渦に、吃音を抱えた人が飲み込まれてしまったら。
そうして、その人が人知れず孤独を感じてしまったら。
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そんなときに、「話聞くよ」っていう人がそばにいたら。
吃音のことを理解し、そんな自分を受け入れてくれる人がいたら。
ぼくのように、きっと吃音をもったその人も救われると思う。
だから、こうやって自分の吃音の体験、そこから感じた想いを発信していこうと思っています。
話し方を笑われる、からかわれることからくる劣等感・孤独を例にあげましたが、
吃音を抱えている人にとってのストレッサーは他にもたくさんあります。
飲食店でうまく注文ができない。
電話で口ごもってしまう。
プレゼンでまったく話せない。
などなど。
その1つ1つの事象に対して傷つき、悩んでしまう。
ぼくも多少は改善してますが、今もそんな感じです。
でもその経験を少しでも還元出来たら。
それが少しでも吃音を抱えた人にプラスの力を与えられるなら。
めちゃめちゃうれしいです。
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でもたぶん、現実はそんな寛容ではないとも思っています。
「コミュ力」なんてものすごくふわっとした言葉が蔓延して、
流ちょうにぺらぺら喋れて、話が面白い人が持ち上げられる世の中。
幻想かもしれないけど、ここ最近そんな風潮が広がっていっている気がしています。
そんな社会の波に、誰かが傷つけられ、飲まれているなら、
それはすごく悲しい。
きれいごとかもだけど、
ぼくは、「自分らしい表現がもっと許容される社会」を夢見ています。
文章でも、絵画でも、吃音のようなある意味「不完全な」言葉でも。
人の中にある想いって、無限にあります。
あなたが大切にしたい人が抱えている想いにちょっと耳を傾けてください。
それが、たとえうまく言葉が紡げない人であっても。