ココログ。

22年間の経験・想いをつらつら出すブログ。たまにいいこと書くかも。

ぜひ読んでみてください。

たまたま本屋さんで見つけて、見てみました。

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様々な吃音話者の人生を通して、吃音とは何かを実生活に即した形で発信されている本。

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人によって症状に大きく差が出るのが吃音の特徴の一つであり、それによって吃音との向き合い方にも差が出てきます。

 

治そうと懸命に努力を重ねる人、治すのではなくそれを受け入れて前に進む人、、、どれが正解とかはなく、その人がどうしていきたいのかを考えることが、吃音と向き合う上での大事な一歩であると思います。

 

 

そして、札幌での看護師の自死事件についても触れられていました。

これまで新聞記事でしか触れたことのないニュースでしたが、この本では深いところまで記述がありました。

 

周りの受け止め方・接し方によって、吃音話者の方の運命は大きく左右されます。上司の方の対応が最悪の結果に直結したともいえるこの事件を通して、改めてそのことを思いました。

 

だからこそ、ぼくのような経験者がどんどん発信しなければという気持ちにもまたなります。

「吃音」というものをもっとたくさんの人に知ってもらうこと、そして、その周りの人の意識を少しでも変えられたら、こういうことを発信している意味もあるんじゃないかなとも思います。

もっと伝えたいし、広めたい

ご縁があって、言語聴覚士(ST)を目指す学生の皆さんに、自身の吃音の体験を語る機会をいただきました。


思えば、自分の吃音体験を初対面の大勢の人の前で話すのは初めて。
前日まで(正直に言うとみなさんの前に立って話し始めるまで)、まあいけるっしょって思ってたけど、そんな甘くはなかったですね。

 

とりあえずめちゃめちゃ緊張してめちゃめちゃどもってめちゃめちゃ時間オーバーしました。笑
やっぱりまだまだ修行しなきゃなと思いました。
 


ただ、学生のみなさんが本当に真剣に聞いていただき、その点はすごくありがたいなと思いました。
言語聴覚士の方々は、自分のような吃音当事者にとって強い味方であってほしいとぼくは思っています。
それぞれに言いたいこと・想いはありつつも、それをうまく発信できずに悩む方々に対して、心から寄り添ってくれる存在でいてください。
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今回はぼくの他に、吃音の子をもつ女性(母親)がお二方お話をされました。

 

その中で強く感じたのは、「自分の母親もほんとに苦労し、悩んだんだな」ということ。
親戚や周りからの偏見、間違った知識によって周囲から様々言われたことによる苦悩などを語っておられるのを聞いたとき、「知らない」ってほんとに人を傷つけるって思いました。


そしてきっと、自分の親も、少なからず周りからいろいろなことを言われてきたのではないかということ。
それでも、決して自分を見捨てずに見守ってくれたこと。


改めて感謝したいと思いました。


まず間違いなく言えるのは、「子どもの吃音はその親のせい」では決してないです。
愛が足りなかった、とか、変なしつけをしたから、とか、一切それとは関係がない。

 

そのような間違った知識からくる意見に、吃音当事者だけでなく親も苦しんでいるという現状があることに、今回強く危機感を覚えました。

 

当事者本人だけでなく、その周りの方々をひとりでも救えるように、これからも発信をつづけていきたいと改めて感じさせられた出来事でした。

 

 

いつか、大きな会場でたくさんの人のまで話せるようになりたい。
てかそう考えると、TABIPPOのDREAMとか出てた人ってほんまにすごいんですね。笑

きれいごとかもだけど。

100人に1人。

 

この数字を見て、みなさんはなにを思い浮かべるでしょうか。

 

当てはまるものはけっこう多いと思いますが、

これ、「吃音」を抱えているとされる人の割合です。

 

 

 

けっこう身近な気がしませんか?

 

もしかしたら、みなさんの周りにもいらっしゃるかもしれません。

 

 

ただ、

この数字は、「言葉が伝わらないことによる『生きづらさ』」を抱えている人の割合、とも言えるかもしれません。

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こんな感じで、今までFacebookとかで吃音のことを発信していっていました。

読んでいただいた方、ありがとうございます。

 

 

正直、「これ発信してて意味あるのかな」とか、「誰かに届いてるのかな」とかってけっこう思ったりもしています。

 

 

それでもなんでやってるのかって考えると、

 

「吃音」っていうものを、もっと多くの人に知ってほしいから。

そして、もしあなたの大事な人が吃音を抱えて苦しんでいるなら、その助けになってほしいから。

 

 

ぼく自身、小学校3年生の時に発症して以来、改善はしているものの今もまだ付き合いつづけています。

 

その間、いじめられたりもしたし、からかわれたりもしたし、まともに話を聞いてもらえないこともあったし、相手の反応が常に怖かったときもあったし、いろんな悲しみや恐怖と向き合ってきました。自分で言うのもあれだけど。

 

でもそんなときが、こんな自分とお話してくれる人であったり、遊んでくれる人であったり、

そういう人の大切さが身に染みて分かった時期でもありました。

 

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「もっとちゃんと話せよ」

「何言ってるかわかんねぇ。」

「こいつまともに日本語も話せねぇのかよ。」

 

 

わかります。その気持ち。

 

 

吃音は、一見しただけではわからない障害です。

単純に「滑舌悪い人」と混同されるケースも多い。

 

 

テレビのお笑い番組で、芸人さんがひとたび噛んだりすると、即座に他の芸人がいじる。

滑舌悪いのを持ちネタにしている芸人さんも少なからずいらっしゃいます。

 

 

決してその人が悪いわけではない。

たしかに、人が噛んでしまったシーンはおもしろく映るかもしれない。

 

でもぼくは、そういうシーンを見るたび、おもしろさの奥に悲しさを覚えてしまうんです。

 

 

その笑いの構図を、そのまま学校に持ち込まれてしまったら。

もしその構図の中に、吃音を抱えた人が入ってしまったら。

悪気のないいじりの渦に、吃音を抱えた人が飲み込まれてしまったら。

そうして、その人が人知れず孤独を感じてしまったら。

 

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そんなときに、「話聞くよ」っていう人がそばにいたら。

吃音のことを理解し、そんな自分を受け入れてくれる人がいたら。

 

 

ぼくのように、きっと吃音をもったその人も救われると思う。

 

 

だから、こうやって自分の吃音の体験、そこから感じた想いを発信していこうと思っています。

 

 

 

 

話し方を笑われる、からかわれることからくる劣等感・孤独を例にあげましたが、

吃音を抱えている人にとってのストレッサーは他にもたくさんあります。

 

 

飲食店でうまく注文ができない。

電話で口ごもってしまう。

プレゼンでまったく話せない。

などなど。

 

 

その1つ1つの事象に対して傷つき、悩んでしまう。

 

ぼくも多少は改善してますが、今もそんな感じです。

 

 

でもその経験を少しでも還元出来たら。

それが少しでも吃音を抱えた人にプラスの力を与えられるなら。

 

めちゃめちゃうれしいです。

 

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でもたぶん、現実はそんな寛容ではないとも思っています。

 

 

コミュ力」なんてものすごくふわっとした言葉が蔓延して、

流ちょうにぺらぺら喋れて、話が面白い人が持ち上げられる世の中。

 

幻想かもしれないけど、ここ最近そんな風潮が広がっていっている気がしています。

 

そんな社会の波に、誰かが傷つけられ、飲まれているなら、
それはすごく悲しい。

 

 

 

きれいごとかもだけど、

ぼくは、「自分らしい表現がもっと許容される社会」を夢見ています。

 

文章でも、絵画でも、吃音のようなある意味「不完全な」言葉でも。

 

 

 

人の中にある想いって、無限にあります。

 

 

あなたが大切にしたい人が抱えている想いにちょっと耳を傾けてください。

 

 

それが、たとえうまく言葉が紡げない人であっても。

 

勝手さと醜さと。~吃音話者と向き合う時

吃音って言語障がいがぼくにはあります。


言葉が詰まったり早くなったりで、聞き取りづらいことも多々あります。


そういう人なんだって知っておいてくれるだけでいいので、よろしくお願いします。





初対面の人と話すときに、こんな言い方をして自分を知ってもらおうとする。

そんな人だって認識してもらえるだけでも、コミュニケーションのしやすさが変わるって個人的には思うから。





障がいとかでいじめられてる子どもたちに、学校だけが世界じゃないって、旅を通じて知ってもらいたいんです。



「将来やりたいこと」って聞かれたときに、最近よくこんなことを言っている。


自分のいじめられた経験とかを活かして、吃音とかの障がいのある子どもたちに向き合うことをしたいんです、って。


ぼく個人の意見なのだけど、
吃音とかの障がいって、ぱっと見では見えにくい。しゃべってみて初めてわかるし、その程度の差も大きい。

だから、そのぶん周りの人に誤解されやすい面もある、とぼくは思う。


今もそうなのだけど、お笑い番組とか見てると、滑舌の悪い人・上手にしゃべれない人をいじることで笑いが生み出されるシーンが、ぼくが小学生中学生の時は多かった。


そうなると、日常生活のコミュニケーションでも、それを適用してしまう人も中にはいた。というか、そんな空気もあったと思う(そう感じたとき、ああお笑い番組の力ってすごいのねって思う時もあった)。


吃音の人が言葉に詰まったり早くなったりしたとき、「滑舌悪い芸人」みたいな感じの扱われ方をされて笑われる、みたいなこともしょっちゅうあった。少なくともその時はそう感じた。


それで笑って受け流すこともできる人もいたと思う。けどぼくはできなかった。その自分をダメ人間やと思い込んで、下に下に見てしまって、自分の存在価値とかをこれでもかっていうくらい心の中で否定するときもあった。



今でも、たまにそんな自分が顔を出す。





なにが言いたいかというと。






ぼくは未だに、吃音の人と会話をするのが怖い。


無意識に避けてしまう。

 

 

 

 

そこに自分が見えてしまうから。

吃音をもった自分に価値がないって思いこんで、自分の心を必要以上に傷つけて、悲しくてつらかった時の自分が目の前にいるような気がしてならないから。

その自分を見るのがとてつもなくつらいから。







他人には、もっと自分をわかってほしいって言うのに、

自分と同じ、吃音をもった人の気持ちとかをわかろうとしないで、無意識にコミュニケーションを避ける自分。




醜すぎませんかって思うわけです。




だから、障がい者の支援をしている障がい者の方を、ぼくはほんとに尊敬しているんです。


吃音の方々の就労支援を行っている団体の、吃音をもっているけど同じことで悩む人の助けになりたいっている志をもって実際に行動されてる人と何度かお会いする機会があるんですが、
ほんとにその人達のことを尊敬しているんです。






この感情の処理の仕方、誰か教えてください。


どもる自分を本当に認めてあげることができなければ、その先へは進めない気がします。

 

 

 

 

 

あ、この記事も、吃音の自分わかってほしい!って想いで書いてるんでしょうかね。

むーん。